Wednesday, September 20, 2006

潤っていたい

潤っ ていたいなぁ~。もちろんお肌もなんだけど…これ、心のこと。人間として、妻として、母として、一応機能はするんだけど、渇いているとね、ついついつれな い態度や言葉で大切な人たちを傷つけてしまうことがあるよ…自分でも気づかないうちにね。それに、潤っていないと見えないものがあって、私の周りにいる大 切な人たちのニーズを見落としてしまう。

そんなときは、聖書が潤いを与えてくれる。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、
All Scripture is given by inspiration of God,

教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
and is profitable for doctrine, for reproof,
for correction, for instruction in righteousness,

(第二テモテ 2Timothy  3:16)

教えと戒めと矯正と義の訓練?だ なんて、こんなの読んでると潤うどころか肩が凝るぅって思う?神さまが私たちに要求することがリストになっていて、「従え~、それができん奴にゃあ 罰を与えるぞ~!」みたいなことが書いてあると思う?もしそうだとしたら無意味だよね。きっと重荷になるだけだよね。

聖書って…私達を創造された神さまがプレゼントしてくれた人間のマニュアル書だと言う人もいれば、聖書は神さまからのLove Letterだという人もいる。私にとってはどうだろう…

大 きく感銘を受けたとか、自分を原点にもどしてくれたとか、心を揺さぶられるような本はたくさんあるけれど、そ れらが私の好きなフレーバーのソーダだ としたら、聖書は深い深い山の奥に水源がある湧き水のようなもの。渇いたときには、やっぱりひんやりした水が欲しくなる。すっきりしそうだからソーダもい いなと 思うけれど、いくらソーダを飲みつづけても渇きはおさまらない。(余談だけど…ソーダに含まれるSodium=塩分は、飲むとその倍の量の水を飲まないと 渇きを癒すことができないのだそう。)それに、神さまのことばは人間にとってはもっとStapleなもの…ほらあのStaple Foodとかいう主食的 な主要素 なんだろうな。日々摂取していると、その水自体が細胞ひとつひとつの渇きを見つけて潤してくれる。

と、そんなことを思いながら先週の金曜日、YasushiさんとYukoさん宅でのフェローシップの後、帰路についた。


1 comment:

Yuko said...

きこさん、

さすがお料理好きのキコさん、塩や桃から、霊的渇きに結びつくわけですね。そうですね、潤いはクリスチャンにとって、とても大切なことだと思います。Fill my cup Lord...という歌がありましたけど、私たちの霊的心が渇いていると、心から愛が流れ出ることもできなくなってしまいう、要するに人々に愛を分け与えることができないばかりか、自分さえも渇きを覚えて苦しい状態になってしまうのでしょうね。常に御言葉によって充分に潤されていたいものです。キコさんの、ブルグを読んで心がまたリマインドされました。ありがとう。