Makaylaとサム
あるClassical Conversationsの金曜日、クラスが始まる前にサムと同じクラスにいる娘(Mckayla)を持つGwynに呼び止められた。「今日 Makaylaがプレゼンテーションでフィリピンで日本軍の捕虜収容所に3年間捕らわれていた私の叔父について話しをするの。子供たち(特にサム)はきっ と色々な疑問をぶつけてくると思うから、前もってあなたに伝えておきたかったの...」と言われた。
Gwynのお婆さまが大切に保管して おられたという黄ばんだスクラップブックを見せてもらった。そこには日本軍の捕虜となって収容されていたアメリカ人のキリスト教の伝道師のファ ミリーの写真と手記(新聞の記事)が丁寧に切り取られて貼ってあった。栄養失調で痩せ細った人々のこの眼差し...いつか見たナチスのアウシュビッツの収 容所の人々の記事を思い出させた。男女別々に収容されたので家族は一緒には居れず、草の根や爬虫類や犬などを食べて3年間飢えをしのいでいたという。まさ にこれがGwynの叔父さんのファミリーだった。そして彼女の叔父さんは、これから射殺されるというラインに立たされたときにアメリカ軍によって救出され た。間一髪のところだったそうだ。
学生時代、ある人から「祖父は真珠湾攻撃のことを今でも恨んでいるから、日本人である君を嫌がると思 う」と言われたことがある。そんなことを言われても なぁ...ヒロシマはどうなのよ、私は日本人だけど、そんな残虐なことをした人たちとは関係ないのにというのが当時の私の正直な気持だった。でも今は違 う。その時代に私もそこにいたら、同じことをしていたかもしれない...自分が大切にしているものが奪われるという恐怖から。そう思うと「日本人がひどい ことをして本当にごめんなさい」と一言謝まりたくなる。 Gwynの叔父さんに対しても同じ気持でいる。数年前、Gwynのお姉さんが伝道師として、日本に行くことを決めたときに、お婆さまに、「日本にだけは行 かないでお くれ」と反対されたそうだ。無理もない。しかし、お婆さまの反対を押し切って、お姉さんファミリーは2年間日本で伝道をされたのだとか。
こ の日はそんな戦争にまつわる話しをあれこれしながら、Gwynと泣いた。どこの国の人であれ、人間は、なんて罪深いんだろうと。戦争がなく なるよ うに、私たちに何ができるかと問われても答えがでない。私にできること...この小さな私にできることは、自分の子供たちを神様の御心にそって育てること。真の平和を思うとき、それしか思いつかない。
ところでこのプレゼンテーションの後、サムはこのことに関して私に質問をしてくるわけでなく、特に興味を持っていると いう様子ではなかった。しかし数日後にサムが古本屋で買って欲しいと手にとった本は"Japan At War: An Oral History"( by Haruko Taya Cook, Theodore F. Cook New Press)という日本人の戦争体験談を綴ったものだった。その場でサムにこの本"Japan At War"の最初の方を読み聞かせたところ、とても興味深かったので買って帰ることにした。それがとても現実だとは思えないような風景の描写は、読んでいて 苦しい。しかし、それから目を背けていてはいけないと思った。
それからしばらくして、Gwynが新聞の記事を切り抜いたものを見せてくれ た。それは、かつて広島に爆弾を落としたB-29のパイロットの一人のジャーナルの一部だった。一人のジャーナリストによって長い間保管されていたもの で、残念ながら、そのジャーナルには著作権の保有者のサインがしてあるため、博物館への寄贈ができないでいるのだとか。そこに綴られていたのは、広島に原 子爆弾を落としたときの様子、そして落とした直後の一言...God, what have we done?(私たちはなんということをしてしまったのだろう...)だった。
このブログをUpしようと思ったちょうど今日、月に一度の老 人ホームのミニストリー(教会に行けないホームのお年寄りの人たちのために、メッセージとミュージックを届けるプログラム)があった。そこで95歳の元軍 人のあるお年寄りに出会った。私が日本人だと言うと、「私はかつて日本人と南太平洋で戦った。君のおじいちゃんと戦ったんじゃないだろうか。」と言った。礼拝メッセージはそっちのけで、いかに日本の軍人がタフ(しぶとい敵)だったかを私に話してくれた。 横でAmazing Graceを歌っていた日本人の私(かつての敵国の人間)をどう思っていたのだろう。こちらからも聞いてみたいことは山ほどあったけれど、やっぱり聞けなかった。帰り際に、 マリが私の娘だと知って、彼女の頬に手をあててにっこりと微笑んでくれた。やさしいGrandpaの顔。そして「来月また来るからね」と言った私の手をしっかりと握ってくれた。親指がないゴツゴツした冷たい手が、なぜかとても温かく感じた。
今年の秋のClassical Conversationsの歴史は米国史。すでに神様は、私たちのマインドをそれに向けてととのえてくださっているよう。これらの体験すべてが、まるでプレリュード(Prelude)のように心に浸透している。